心が疲れた時の対処法

2010年8月7日土曜日

哲学 脳と心

T f B! P L
しんどい

例えば、貴方が怪我をしたとします。
しかし、それはどんな場合であっても「同じ怪我」でしょうか?

ごく一般的な思慮分別で考えるなら、

後ろから車に追突された場合→相手の責任
階段を駆け降りて転んだ場合→自分の責任

という結論に至る筈です。

このように、怪我という出来事一つだけでも自責の場合と他責の場合があるように、私達が日々遭遇する不都合の中には、相手に責任を求めてよい部分、自助努力で乗り越えるべき部分、専門家の判断を仰ぐべき微妙な部分…と、一つ一つ局面が違います。

例えば私の場合でしたら、近所の敬老会のような催しや、学校のPTA主催の会議に参加する事を要請されたら、我が家がそれに参加する義務があるかどうかを検討した上で、「参加する必要ナシ」と判断した場合は「申し訳ありませんが参加できません」とハッキリお断りします。

寄付金の類いを要求される場合は、なおさら慎重に判断します。

逆に、自分の子供が友達から借りたゲームソフトを紛失した場合などは、当然ながら、保護責任者である私に弁償する義務があります。

「私」という概念

日常的な「心の疲れ」を感じている人達に共通しているのは、

「なぜ、私がこんな事をしなければならないのだろうか?」
「なぜ、あの人は私にばかり冷たく接するのだろうか?」

といった具合に、視点が「私」という一点で固着化してしまっている事です。

まずは、「私」を一度、脇に置いてみるのがポイントです。

「社会通念上、許容される範囲なのか?」
「法律的にはどうなのか?」

一般的に人が「心」と呼ぶモノは、つまるところ「私の感情」を指しています。
つまり、「心が疲れる」という状態は「感情という物差し」では測り切る事ができない事態に遭遇した時に起こる現象です。

ならば、感情以外の物差しを使って測り直すしかありません。
そう、「論理という物差し」ですね。

特に「他人と意見を出し合ってまとめる事が苦手」という人が、この厳しい時代(実際には厳しくなかった時代などありませんが)を生き抜いていく為には、論理思考を鍛える事が不可欠だと思われます。

例えば、これから貴方が就職、あるいは転職する際、十人の応募に対して採用枠が一人だったとします。

その際、合否を決める要素は何でしょうか?
貴方とライバル達を分つものは何でしょうか?

「心」などといった漠然としてものではなく、純粋に「能力」が問われますよねぇ??

ならば、

「今の自分に欠けている実務能力は何なのか?」
「これからの時代に必要とされる資格は何なのか?」

といった部分を突き詰めて論理的に考えなくてはいけませんし、その選択責任は貴方自身にあります。

あるいは主婦の方でしたら、

妻としての労力に○○%
母としての労力に××%
女としての労力に△△% etc…

といった具合に、一日の生活に必要なパワーの「割り振り」も考える必要があるでしょう。

つまり、「私」という主体ではなく「社会という盤上に於ける、私という駒の置き方」を考えていかなければならないわけです。

もちろん、論理思考を鍛えるとは言っても、

「裁判を傍聴して刑法を勉強しろ」
「コンピュータープログラムを勉強して会計ソフトを作れ」

などという突飛な事ではありません。

そのレベルになると、それらを直接の目標にしている人でなければ単なる「苦痛」で終わってしまい、余計に疲れてしまいます。

「小一時間で出来る事」を日々ネチネチと続けるのがマモリ流ですσ(`∀´メ)

論理思考の鍛え方

まずは普段の生活と並行して、パズルや対戦ゲームに挑戦してみて下さい。

・ルービックキューブ
・テトリス
・チェスや将棋や麻雀
・株式売買シミュレーション
(くれぐれも、実物には手を出さない)
・中学生程度の数学や物理の問題集
(雑学クイズの類は出題者の恣意が混ざってしまうのでダメ)

少しレベルを上げるなら…

・身の回りの簡単な機械の修理
・自然の河川での魚釣り
(人工的な釣り堀はダメ)
・卓球のようなコンパクトなスポーツ
・外国人の友達を作って共同作業をする。

大事なポイントは「理解できる範囲で数理的である事」、あるいは「相手の出方を予想し、そのデータを積み上げる」という部分です。

話を心理の方に戻すと、「心が疲れる」というのは「私」という主体の「趣味嗜好」、あるいは「喜怒哀楽」といった物差しでは目の前の出来事が測り切れない状態、つまり「判断の拠り所」が無い状態です。

それは、当り前の話なのです。
この広大な宇宙の中で「私」という存在がナンボのモンでしょうか??

そのちっぽけな「私」の中だけに存在する「心」という物差しだけで、目の前の出来事を全て測れるワケがないのです。
自分の内側に在る「拠り所」だけで足りなければ、外側にも持つしかありません。

その「外側の拠り所」となるものが、数理、物理、統計、確率…といった物差しなワケですね。
上記に挙げた身近な例は、全て数理、物理、統計、確率のいずれかの要素が入っています。

究極的に言ってしまうと、「論理思考」とは「使える物差しの数」なのです。

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